文脈病

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『芸術の設計』岡崎乾二郎

……つまりそれは、くりかえし何度も見ることができる作品と、瞬時に察知される意外さや迫力がある作品との条件の違いである。後者はパーティーグッズのような物珍しさに頼るか、骨董屋のように希少性を捏造する。多くの現代美術作品は、他のものとの関係性を読ませるが、作品を一個の事物として自律させるためには、逆に、事物が新たにコンテクストを組織するのでなくてはならない。

2
I.N.U. 第一回企画 シンポジウム「美術」
http://bijutsuken.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-5419.html

……で、もう一度国内に目を向けて、きっとそういう話も日本のどこかでされているだろうと考えたんだけど、四谷[編集部註:「近畿大学 国際人文科学研究所東京コミュニティカレッジ 四谷アート・ステュディウム」のこと]あたりが思い当たりますね(笑)。四谷に、岡崎さんっていう人がいます。あそこらへんに集まっている人たちが、自分たちが作った用語や訳した用語を使って、自分たちが見てる風景を、あたかも大きな問題であるかのように語っています。そこでは確かに「クリティカルな話」がされているらしい。その閉じている雰囲気は確かにムカつくので、僕もそれは分かる。だから、開催趣旨が四谷を仮想敵としているのならば、ここに書いてある「「美術」がいかにも旧弊な閉域へと陥っている」という批判も分かる(笑)。でもその反面、それを前提としている時点で自分も陥っているんじゃないか?

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『ARTiT』 連載 田中功起 質問する 1-1:土屋誠一さんへ
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/1ABkx0hEC9izobIetRKa

「作品が展覧会というフォーマットから帰納的に決定されている、アーティストのみなさんは、この規制をどのように乗り切るつもりなのか?」。
と、これではまだ乱暴なので、もうすこし説明すると、(A)展覧会というフォーマット(美術館やギャラリー空間で会期が決まっているとか、所与の条件がまずある)+(B)ホワイトキューブ(物理的なホワイトキューブのことではなく、大なり小なり理想的な展示空間を前提しているということ)+(C)そこで見せる人はかならずアーティスト(もちろん建築家やデザイナーもいるけど、つまりその場所で見せることを裏切らないひとという意味かな)、この3つを足したものが、「美術」という制度のベースになる。ここから導き出されたものが作品として展示される。これ「A+B+C=美術」が、この制度が前提としている作法(規制、様式)であり、この作法を逃れ出ているものはあまり見いだせない。
「A+B+C=美術」が無根拠に前提(無条件に承認)とされている。見に行くひとはその前提をひとまずは承認した上で、「美術」を見に行く。簡単に言えば、映画のフォーマット(たとえば映画を見るには1時間半ぐらい、暗がりのなかで椅子に座らなければならない)を承認した上でぼくらは映画館に行く。上記の点に文句をいうひとはまあほとんどいないでしょう。
で、土屋さんはこの無根拠で儀礼めいたものに嫌気がさしている、とうことですよね、たぶん。
というわけでこの「規制」というか「儀礼」「様式」「前提」をどうやって乗り切るのか、ってことが、少なくともアートがアクチュアルなものとしていまでも捉えられるのならば、必要なわけです。ライブなものとして見直す可能性というか。安心できる場所を確保してぬくぬくするのに満足できないひとは、とにかくこの「儀礼」をひとまずはなんとかしなければならない。
だけれども、では実際にそのフォーマットを前提としないような作品・制作・発表ってどのようなものが考えられるのか。美術犬のシンポジウムではそうした議論には発展しなかったんですが、ぼくが土屋さんに聞いてみたい

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