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月別アーカイブ: 2010年5月

2010/05/19

『話』のない小説

柄谷行人『日本近代文学の起源』
VI 構成力について 〜その二 「『話』のない小説」論争〜

芥川にとって「話」は何を意味していたのだろうか。
“「話」らしい話のない小説はもちろん唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思ってゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、—-通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。”
芥川自身が絵画を例にとっているということからみても、彼のいう「『話』のない小説」がいかなる文脈で語られているかは明瞭であろう。すでにいったように、後期印象派は、まだ遠近法に属しているとはいえ、そのような作図上の均質空間に対して「知覚空間」を見出している。芥川のいう「話」とは、見とおし(パースペクティブ)を可能にするような作図上の配置にほかならない。しかし、重要なのは、たんに芥川が第一次大戦後の西欧の動向に敏感だったということではなく、また彼がそのような作品を書こうとしたことですらもなくて、西欧における動向を日本の「私小説的なもの」と結びつけてことである。
(……)
芥川がみたのは、告白か虚構かというような問題ではなくて、「私小説」というものがもつ配置の在りようだったといえる。芥川は、それを中心をもたない断片の諸関係としてみたのである。
(pp.224-225)

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2010/05/18

チェルフィッチュを見に行こうか、チケットはどうやらまだあるらしい。しかし、どうなのだろう。彼らの演劇はビデオで見たことがあるのだが、そして興味深いことは間違いないのだが、一方でビデオではなくその場で見る必然性があるのかと問われると疑問だ。というより、私は演劇を見ると、どうも舞台上の人々がバカに見えてしかたないのだ。ダンスやバレエは違うのに。台詞があるからだろうか。いや、チェルフィッチュの面白さは台詞とそれを発する身体にあるのではないだろうか。……とかいっていたら、夜にこんなのを見てしまうわけだ。

@おかざき乾じろ

チェルフィッチュ は徹底的に、演劇=舞台の本質をついていた。
3部構成が構造的に弁別されすぎているキライがあった(身体の動きも語りの特徴)が、それは演劇として成立させるための賭けとして成功していたと思える。 約11時間前 webから
(当たり前の事を書くならば)、まず基本として、ある人間の行為を演技か/まじか、で弁別するのは、行為する本人の意図(自由意志)によるかどうか、という基準で、行うことはできない。ということがある。 約11時間前 webから

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2010/05/17

メイキング『悪と戦う』まとめ 2

@takagengen

今日の予告編1 今日、子どもたちは、奥さんに連れられて、多摩センターまで、奥さんの友だちのバンドの野外ライヴに行ってきました。ロック+パンク+ジャズなんだけど、しんちゃんはおおいに「ノッテ」、頭をふって楽しんでいたそうです。疲れたんですね、さっき寝かしつけたら5分で爆睡でした。
予告編2 今晩は、写真と小説、それから、小説につきまとう「真実でなければならない」という幻想の理由について話すつもりです。まだ一度も書いたり話したりしたことがないことが多いので、うまくいくかどうかわかりません。でも、いいでしょう。ダメだったら、またやってみるだけの話です。 4:28 AM May 9th webから
予告編3 それから、きわめて個人的なことも一つ話したいと思っています。でも、しないかもしれない。スタートは決めていますが、どういうルートをたどり、どんな結末になるかはわかりません。おそろしい、でもわくわくするような感じです。確かに小説を書く時と似ているかもしれないな、では24時に 4:32 AM May 9th webから
メイキングオブ『「悪」と戦う』9の1 久しぶりにスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読み返して、以前読んだはずなのにすっかり忘れていたことにぶつかった。それは、ロベール・ドワノーの写真に関するエピソードだ。それはたぶん誰でも一度は見たことのある、ものすごく有名な写真。 5:02 AM May 9th webから

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2010/05/10

ytkhny via kjkrtn

柄谷行人【埴谷雄高とカント】
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/gunzo9704.html

(1997.02.22)

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2010/05/10

LIFE HOUSE NORO

LIFE HOUSE NORO
http://www.paw.hi-ho.ne.jp/noro/index.html

1年ぐらいご無沙汰している間に、閉店して別の場所に開店していた。
久しぶりに行きたい。いせやにも。

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2010/05/09

メイキング『悪と戦う』まとめ on 20100559

@ takagengen

告知です。5月1日の深夜(たぶん24時くらい)から、「メイキングオブ『「悪」と戦う』」という連載をします。「たぶん24時くらい」というのは、れんちゃんとしんちゃんを寝かしつけてから、ということですので、そのまま寝てしまったら、スタートは午前3時とかになる予定w。 8:15 AM Apr 30th webから
内容は、新刊のメイキングと少し突っ込んだ小説論の予定です。かねがね、文芸誌に真面目に評論を書くのが、なんか不自然な気がしていました(でも書きますが)、そういうのって、ほんと文学と関係あんのかよ! って思っちゃわけです。こういう「歩行者天国」みたいなところでこそやってみたいな、と。 8:23 AM Apr 30th webから

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2010/05/02

柄谷行人『日本近代文学の起源』

古典古代の美術において、個体が「空間」とはべつにあった、つまり諸個物不等質な空間に属していたとすれば、中世美術はそれら個物の実在性をいったん解体し、平面の「空間的統一体」のなかに統合する。ここで、世界は「等質的な連続体
」に改造される。それは「測定不可能」で「無次元的な流動体」であるが、測定可能な近代の体系空間(ガリレオ・デカルト)はそこからのみ出現しうるのである。《芸術がこのように単に無限で「等質的」だというだけでなく、また「等方向的」でもある体系空間を獲得するということが、(後期ヘレニズム・ローマ期の絵画がどれほど見せかけの近代性をもっていたにしても、やはり)どれほどまで中世の展開を前提として必要としているかも、明らかに見てとれよう。というのも、中世の「大規模様式」によって、はじめて、表現基体の等質性も作り出されたのであって、この等質性がなければ空間の無限性のみならず、その方法に関する無差別性も思い描かれなかっただろうからである》(パノフスキー)。
 逆説的なことは、近代遠近法における「奥行」が、いったん古典古代的な遠近法が否定されることによってしか出てこなかったということである。古典古代において、プラトンは、遠近法は事物の「真の大きさ」をゆがめ、現実やノモスのかわりに主観的な仮象や恣意をもちだすという理由で、それを否定していた。遠近法をしりぞける中世の空間は、いうならば、「知的空間」をしりぞけるネオ・プラトニズム=キリスト教的な形而上学のなかで形成されるのである。そうだとすれば、奥行き、測定可能な空間、あるいは主観–客観という認識論的な遠近法(ルビ・パースペクティブ)は、キリスト教・プラトニズム的な形而上学に対立するのではなく、まさにそれに依拠しているのである。
 現代絵画における遠近法への反撥—-後期印象派は結局まだそこに属している—-は、遠近法的における「等質的空間」が、作図によって与えられたものであり、「知覚」によって与えられるものとは乖離しているという意識にはじまっている。この場合、知覚は、たとえば「手でつかむ」運動をもふくむのであって、たんに視覚に限定されてはならないし、また諸感覚としてばらばらに切りはなされてはならない。知覚は、したがって、身体は錯綜した構造体としてある。絵画におけるキュービズムや表現主義の反遠近法は、哲学における知覚・身体に対する現象学的な注視と対応しているのである。
(VI 構成力について その1 没理想論争 pp.196-197)

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