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月別アーカイブ: 2010年7月

2010/07/21

in limbo

In Limbo
http://www.youtube.com/watch?v=tY_DUtRfuqA&feature=fvw

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2010/07/16

archive materials about sees

ARCHIVE MATERIALS

さしあたってseesを聴き直してみたので、気になった部分を書いておく。
 また、時間があるときにレコーダーを手放してはならない。常に持ち歩くこと。
気になった点
足し算の問題
 順序の処理だけでなく、足し算的な方法をとっていたのは覚えているが、この方法はあまり有効ではない気がしている。というのも、足し算的な複雑性というものは、簡単にそれをラッピングしてしまうような認識・認識論が成り立ってしまうからだ。
 足し算的複雑性は、完全であるという状態が常に自動的に更新されてしまうものだった。完全性はいつでも自明のものであり、最前線に認識される。
 対して、引き算的な方法では、もう少し複雑であるように思う。というのも、引き算される前の完全な状態というものが、簡単には復元(想像)できない。何かが不在だと思うための、そもそもの完全性は自明のものではない。つまり、引き算的複雑性とは、何かが欠けている(引き算されている)と認識してしまう状況にいなければならないうえに、そのための完全性も認識していなければならない。完全であるという前提(しかしこれは自明ではない)と、その欠落が認識されなくてはならない。
 要は、足し算的複雑性は、この場合、ぜんぜん複雑ではなく、デレンジメントもしくは多義性を持っていなかったのだ。
 制作当初より、疑念があったのやはり問題があったからなのだった。周波数の足し合わせの延長で現象を捉えていたのが浅薄であった。足し算ができるとしても、単純な足しあわせではないのかもしれない。
次に
類似・近接
 意識的に制作していなかったが、音の聞こえ上の類似を問題にしているような箇所あった。よく似ている別の音を前後に配置して順序良く再生しているような箇所である。これは、あまり意識的におこなっていなかっただけに、なにかの萌芽のようにも思われたので、さらに拡大して考える必要があると思われる。
 
最後に、
言葉
 言葉における意味にとらわれすぎている感があり、対象はあらゆる音であったことを忘れてはならない。これがうまくいくためには日頃からの録音が必要であると強く感じた。
気になった音
遠くで人の声がする音が面白い。校庭の向こう端のテニスコートで女の子たちが何か声を出している音だ。monoでも、こういった音の性質は幸か不幸か、ある程度保存される(空間性が全く分からなくなってしまったりはしない)。

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2010/07/11

ROMAZI NIKKI

 一方,キンダイチ君がシットぶかい,弱い人のことは,また争われない.人の性格に二面あるのは 疑うべからざる事実だ. 友は一面に まことにおとなしい, 人のよい, やさしい, 思いやりふかい男だとともに, 一面, シットぶかい, 弱い, 小さなうぬぼれのある, めめしい男だ。

 予は ただ安心をしたいのだ! —-こう, 今夜はじめて気がついた. そうだ, まったくそうだ. それに ちがいない!
 ああ! 安心—-なんの不安もないという心持は, どんな味のするものだったろう! ながいこと—-もの心ついて以来, 予は それを忘れてきた.

 ’つまらなく暮らした!’ そう思ったが, そのあとを考えるのが なにとなく 恐ろしかった. 机の上はゴチャゴチャしている. 読むべき本もない. さしあたり せねばならぬ仕事は 母やそのたに手紙を書くことだが, 予は それも恐ろしいことのような気がする. なんとでもいいから みんなの喜ぶようなことを いってやって 哀れな人たちを なぐさめたいとは いつも思う. 予は 母や妻を忘れてはいない, いな, 毎日考えている. そしていて 予は ことしになってから 手紙1枚とハガキ1枚 やったきりだ. そのことは こないだのセツコの手紙にもあった. セツコは, 3月でやめるはずだった学校に まだ出ている. 今月は まだ月はじめなのに, キョウコの小遣いが 20銭しかない といってきた. 予は そのため 社から少しよけいに前借した. 15円だけ送ってやる つもりだったのだ. それが, 手紙を書くがいやさに いちにち ふつか と過ぎて, ああ……!  すぐ寝た.

 予は いま予の心に何の自信なく, なんの目的もなく, 朝から晩まで 動揺と不安に おったてられていることを知っている. なんのきまったところがない. このさき どうなるのか?
 あてはまらぬ, 無用なカギ! それだ! どこへもっていっても 予のうまくあてはまるアナが見つからない!
 タバコにうえた.

啄木の日記は複雑に組み上がっている。
対して、多くの小説や映画(や美術)は、なぜ第三者的な記述に落ちて行くのか?
そういった「語りの形式」自体が、記述体系として程度が低いといったレベルにとどまるどころか、暴力として機能しうることに対する自戒の念はないのか。
といったところで、では複雑な世界の内側からその当事者として対象を観測し記述した場合、それは(つまり日記は)作品となりうるか。

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