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月別アーカイブ: 2011年12月

2011/12/15

メモ

http://www.artstudium.org/comment_okazaki.pdf

身体表現と一口に言われますが、身体はそもそも単一のものであることが保障されているわけではありません。(ルーティン化された所作のなかでは、身体は意識されないので、単一なものと思い込んでしまいがちです)けれど、なにかスポーツでも身体的な技術でも、新しいことを覚えようとするとき、あるいはどこか故障したとき、思いの通り、身体が連動しないこと、身体各所が同時に動かず、バラバラにずれていってしまうようなことに気づくはずです。
身体表現(の習得)とはそもそもさまざまな器官に分節されてしまっている、身体(具体的には関節を考えてもらえばわかります)を単一であるという観念から、いったん解き放し(まずはバラバラにし)、バラバラにされた、手足、胴体、頭、関節、筋肉、内臓、皮膚をあらためて繋ぎ直し、連動、連携させる方法を会得しなおすことです。
すなわち身体を、一連の運動体へと組織しなおす、固定した体(という中枢的な観念)を捨てさり、代わりに、変容しつづける、さまざまなる運動(する)身体へ組織しなおす、ほんらいバラバラの器官である身体が身体として統合され、単一で、ありうるとすれば、固定されたモノとしてではなく、運動の中においてである、(この身体をひとつに連動させるためのモチベーション=意志をエフォートとラバン〔モダンダンスの理論家〕は述べました)。
以上の身体について述べた事柄はそのまま、言語の過程に置き換えて考えることができます。ばらばらにされた身体からいかに一つの運動体をつくりだすかは、ばらばら、な個々の単語から、いかにひとつの文を形成するか、言語の形成過程に置き換えることができる。われわれは言葉を理解するとき、個々の単語を理解し、それをただ加算(足して)して意味を理解しているわけではない、(文は単語のたんなる加算ではない)、乗算以上のジャンプがあります。個々の単語にはなかった意味が文からは読み取られる、それはしばしば発話者の感情(自己表出などと単純に理解する批評家もいます)と理解されたり、発話者から受け手への行為遂行的な意志伝達であると読み取られたりもしてきた。
いずれにせよ、なぜ、その文が発せられているのか、言われたのか(言われなければならなかったのか)、というモチベーション=エフォートこそが個々の単語そのものの意味よりも重要視され、理解されるわけです。(いいかえれば、この感情的な負荷を帯びていると理解される、モチベーションがなければ、文を発すること、話す事も人はしない)、
だからこそ、ひとは少々、文法がぶっこわれていても、単語が欠けていても、まったく新しい奇妙な言葉使いでも意味を理解することができるわけです。
誰もが知っているように、言語表現にしろ、身体表現にしろ、美術のような視覚表現にしろ、芸術表現において、もっとも重要な面のひとつは文法的には違反である表現を成立させてしまうことであり、ゆえに、(そのことによって)いままでにない文法=形式、話法を創造してしまうことでもあった。
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山崎広太さんは、天才的な言語感覚の持ち主です、こういう人に出会えるチャンスは滅多にない(まちがいありません)、というほど、ぶっとんでいる天才です。サイキばしっていますが、才気は彼の場合、寛容さ、やさしさと繋がっています。言葉はしばしばジャンプする、間が飛ばされ、ことばからことばへ論理節がふたつ、みっつ省かれて、ジャンプしてしまうようなところがある。この特異な言語感覚(イメージ飛躍力)は、山崎さんの身体技術、その方法と(多くの人がそう直感するように)無関係ではありません。
単語と単語をつなぎ合わせるのは、シンタックスという慣習的な法ではない、単語と単語の間をむすびつけるのは、連想です(それがいかに使われうるか、使われてきたか、という具体的な場面での全体的な機能、つまり場そのものが帯びていたイメージ)、この機能的なイメージとイメージを繋ぎ合わせる(アソシエートさせる)こそが、運動である。
ある場面での運動(機能)と別の異なる場の運動(機能)をつなぎあわせる、もう一段上の論理、これが実現させるために必要なのは、むしろ空間的時間的なパラディグム、個々の単語の差異ではなく個々の言葉を、運動する群として、集合として捉える能力です、セザンヌをはじめとするポスト印象派の画家が直感したような。

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