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月別アーカイブ: 2011年8月

2011/08/23

mannerism and modern architecture

コーリン・ロウ『コーリン・ロウ建築論選集 マニエリスムと近代建築』
伊東豊雄・松永安光 訳  彰国社 昭和56年
「透明性—-虚と実」

さて、ジョージ・ケペシュは「視覚の言語」の中で非常に手際よく「透明性」という言葉の定義を更につきつめていったのである。

 二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共有部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行の食違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するためには見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである、すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。しかし、透明性は単なる視覚上の特性以上のもの、更に広範な空間秩序を意味しているのだ。透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけではなく絶えず前後に揺れ動いているのである。透明な像の位置は、近くにあるかと思えば遠くに見えるといった多義性を秘めているのである。

(pp.206-207)

 後期セザンヌの特徴は、その極端な簡略化である。中でも全景に対して正面像が圧倒的な支配力をもっていること、奥行を感じさせる要素が少ないこと、その結果として、全景・近景・遠景が極めて凝縮された構造の中に組み込まれていることなどが、その特徴である。光源は限定されているが、多様に変化する。そして彼の絵画をじっと見つめると空間の中で対象物が前に飛び出してくるように見えてきて、この感じは不透明でコントラストの強い色彩により、一層強められ、また山の裾が画面の縁と交差することによって更に強められる。画面の中心部にはかなり密な斜め方向の直交するグリッドがかかり、周辺部には更にはっきりした水平および垂直方向のグリッドがかかって画面の中央部を支えている。
 正面性、奥行のなさ、空間の省略、光源の限定、物体の前方突出、限られた色彩、斜交および直交グリッド、周辺部を明確にする傾向、などはすべて分析的キュービズムの特徴である。(pp.208-209)

 斜めの曲線の構成は対角線方向の空間のくぼみを暗示し、他方一群の水平線と垂直線はそれとは対立的な正面性を強調している。概して斜めになった曲線はある種の自然主義的な意味あいを持つが画面の縁と平行な直線の方は絵画の面を強調する幾何学的傾向を示している。しかし、この二つの座標系は両者相まって画像を空間の広がりの中へ浮かび上がらせると同時に、画面の上に定着する役目を果たしている。そして交差し、重なり合い、絡み合いながら更に大きな輪郭のはっきりしない図像を構成していくこの二つの座標系は、典型的なキュービストのモチーフの発端である。(p.210)

 ガルシュ(図12)の住宅の一階部分の壁面の後退は屋上のテラスの両側に自立している二枚の壁面にも表現されている。この奥行は側面に回り込んだガラス窓からもうかがうことができる(図7)。(引用者註:屋上の自立壁面は、庭園側のファサードにおいて建物最前面の端まで伸びてきておらず、一階部分の後退した壁面の位置にあわせてとめられている)このような方法を用いて、ル・コルビジェはガラス面のすぐ裏側にそれと平行した細長い空間が存在することを言わんとしているのだ。(引用者註:たとえばそれは回廊のようなもの?)更に彼はその考え方を推し進めて次のようなことをほのめかしている。すなわち、この細長い空間の向こう側に一階の後退面、屋上の自立壁、側面に回り込んだ窓の枠などによって構成されたひとつの面が存在しているのである。そしてこの面は、物理的な事実というより明らかに概念上の都合で考えられたものとして受け取られてしかるべきでもあろうが、それがはっきりと存在することは否定できない。ガラスやコンクリートでつくられた物理的な面とその背後にある想像上の(実在性が全くないともいえない)面を見ると、透明性は窓の働きによって生み出された訳ではないことに気付き、「互いに視覚上の妨害をすることなく相互に貫入する」という透明性の基本的概念を思い起こすのである。
(……)以上に述べたような面のそれぞれはそれだけでは不完全で断片的であるが、これらの面を参照点として全体のファサードが構成されている。またこれらの面が表現しているのは垂直に層状に重ね合わされた建物の内部空間であり、次から次に浮かび上がってくる横に広がった空間の連続なのである。(pp.219-220)

 さてこの家を通してみると、ケペッシュが透明感の特徴として認めた空間の位置上の矛盾が存在するのだ。事実と暗示の間の絶えざる弁証法が存在するという訳だ。実際に奥行のある空間は見掛け上の奥行の浅さとは常に矛盾する。そしてその結果起こる緊張によって何度も繰り返し読みを深めることが強いられる。立体としての建物を垂直に分割する五層の空間と、水平に分割する四層の空間とはそれぞれ時に応じて眼をひくのである、そして空間をこのように格子状に分割することにより解釈は絶えず揺れが生じるのである。
 このような知的な洗練はバウハウスにはほとんど見られない。実際、知的な洗練というものは材料の美学とは相そぐわない場合が多いのである。(pp.221-222)

 この奥行は大会議場を貫く軸線上で、前庭の進入路の形に大会議場の建物の鏡像を射影したときにできる菱形の上に端的に現れている。しかし、ここでもガルシュの住宅と同様、この形態に固有の奥行の表現をどうにかして薄めようとしる努力がなされている。図形としてとらえた場合、これは木立、園路、建物そのものの動きなどによって幾つもに分断され、横軸方向を暗示する一連の指標に置き換えられるのである。そしてこういった相反した暗示作用の繰返しの結果、全体としてはある種壮大な葛藤の場となってくるのである。それは実で奥行のある空間と虚で奥行のない空間との間の闘いなのである。(p.227)

 これは虚の透明性が(キュービズムに由来するものであることは別にして)現代建築の必要構成要素であるというための議論ではなく、また虚の透明性が建築の正当性を試すリトマス試験紙となるというための議論でもない。これは単に属性の特徴づけに役立て、属性の混乱に対する警告として役立てばよいと願ったまでのことである。(pp.229-230)

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2011/08/21

KKTNK @ AYM|MGR 2011 NATSU

田中功起 : 雪玉と石のあいだにある場所で
 一昨々日(木曜日)、終了前ギリギリでやっと見てきたわけですが。
 僕が最後にご本人を見たのはアメリカに行く前の群馬県立美術館で、ということは2009年ということになるのだが(そしてその間、まさにここの意味不明で不躾な記述がなんとご本人に捕捉されtwitterでmentionが飛んできて、んでなぜかマスターの時の論文PDFを送ったりしたわけだが、まぁそれは置いておこう)、確か群馬の時のトークでは興味があることについて氏は「反応」と言っていた(参考:http://www.terrainvague.info/quotes/2009/03/post-11.html)。
 それで、その時は青山目黒でも展示をしていて、そこには確か台湾で即興的にその場にあるようなもので作った沢山の小さなオブジェ、それから路上に進行方向にモノが並べられていて、左から右へと進みながら順にそれらのモノを次のモノに組み合わせて(叩き付けたり、潰したり、投げたり、ひっぱったり、かぶせたり)進行して行く”反応していく”過程をおさめたビデオがあったと思う。
 2009年にこれらをみたりトークを聞いたりして、それまで(ループのビデオとか)each and everyとか夜のビデオとかpeople doing stuff(だっけ?)とか、割とどこにでもある(否、ありそうな)状況から不思議な/奇妙な瞬間(いや、複雑な時間/空間の経験、というべきか)を発見し記録する人だと思っていたけれど、むしろ「そういった事象に人、或は事物がどのように「反応」を返しできごとが生成するのか」といったところに興味が移行いるのかしら、と思って妙に納得したのを憶えている。
 で、LAで2年間たって「青山目黒で個展」←イマココ、と、まぁ私の理解ではこういうことになったわけだ(もちろん、その間artitの連載とか、podcastとか、それからtwitterもチェックしていたけれど)。
 感想としては「うーん、そっち行ったか」という感じが強い。言うまでもないが、つまり「(反応っていっていたのは)うーん、そっちに行った(展開した)のか」という意味である。これは、とりわけ葉っぱ売るビデオについて。筋として大変分かりやすい、むしろ分かりやす過ぎる。もちろん、引き合いに出すだけで十分なはずのデビッドハモンズとつげ義春を、なぜか鉛筆で模写しなおすあたりの過剰さとかに、一朝一夕に解釈できない部分があるのだけれど、とはいえ些か分かりやす過ぎやしないか。チーズとゼリーも同様。だが、それはまぁそれで真摯な感じもして良いのかもしれない。(この傾向は、写真だけしか見ていないけれど、コーヒーを車の屋根の上に乗っけて走る作品、などからも薄々感じていた)
 個人的に最も解せないのは、葉っぱの真摯なビデオを流しているその脇で、他方そこはコマーシャルギャラリー”らしく”、写真等を作品として普通に(結構なお値段で)「売っている」ということだったりする。もちろん別に売るのがダメだみたいな話ではないし、チーズ写真も同じものがチープなコピー紙に拡大プリントされて”販売作品”の後ろやとなりにベタベタと貼ってあるという配慮もあって、ちゃんとしてんなぁとは思うが、ギャラリーの隅に所謂あの赤丸シールが貼ってある”例のあの紙”(そして”あの紙”には遊びが無い)が見えてしまうと、ちょっと醒めた。ビールケースとか酒の空き瓶とか、変な木っ端とか、あるいは借りてるはずのモニターとか或はギャラリー自体も、全部売ってしまえば良いのに(が、それも凡庸か)。いずれにせよモノを売るっていう仕組みを作品の中に構造として取り込んだならば、その作品自体を売るという時に、何かしらの工夫がないとまずいんじゃないか。
 一方で、展示替えというか、インスタレーションというか、展示の方法自体はとても面白かった。壁に残されたねじ釘(かつて何か吊るされたらしい)やテーブル、ビールケース及びその他の配置、それからかつてのそれらのモノの配置写真がこれまたチープなコピー紙で壁にべたべたと。そこから空間の推移を推測し、配置されたモノの位置関係の変化を予測すること(かつてこうであった⇄これからこうであるかもしれない)は大変面白かったし、最終日前日twitterでの答えあわせ的な展開もあいまって楽しかった。正解率は30%ほどだったけれども。
 とまぁそんなわけで、やっぱり個人的にはコマーシャルで見るより美術館とかで見る作品の方が好きだわ、ってことで横トリには行こうと思う。

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