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加藤典洋『テクストから遠く離れて』Ⅰ「作者の死」と『取り替え子』

 ひとりの読者が(『取り替え子』を)「モデル小説」だと感じるとする。その場合、このことは、そもそも、その下卑た好奇心を発動させるゆえんだとして、あるいはテクストを現実に連関させてしまうことだとして、「倫理」的に「戒められなければならないこと」なのだろうか。また、彼が、そう感じ、その後読感に照らしてこの作品を論じることは、—-たしかにテクスト論の構えからいうと禁則違反ということになるが—-、その作品の読みとして、批評として、不当なものを含んでいるのだろうか。

(pp.30-31)

〔エクリチュール〕
 人がある作品を書くという場合、そこでの執筆動機は彼自身にも十分にはっきりとはしていないのがふつうである。彼は、書くことを通じてそれを自分で確認していく。なぜ書くという行為が、それを自分に対してもはっきりさせる契機になるかと言えば、書くという行為の中にいわゆる作者(主体)の意図なるもの、もっと言うなら考えることそれ自体に対する抵抗の要素があるからである。(……)
 しかし、最初に何の動機もなしにこの行為ははじまらないことも押さえておかなくてはならない。

(pp.40-41)

 整理して言えば、こうなるだろう。わたし達は、テクストに促されて「作者の像」を受け取り、作者の「意」についてかくかくの信憑を受け取り、ある作中事実(テクスト内事実)Aは、それを通じ、ある作中事実(テクスト内で作者の「意」にいる作中事実の背後に語られていると信憑される現事実)Bを読み手に伝えてよこすと、考える。ところで、その作中事実Bと作品の言表行為の外にあるいわゆる現実Xとは、何のつながりもない。両者は無関係なのである、と。

(pp.67-68)

 しかし、書き手が「多義性」そのもの(つまりあるテクストが解釈される場合に前提とするルール自体の破壊)をテーマにし始めたら、つまり読者が想定しうる「作者の像」が(多義性故に)無限に生起してしまう状態を志向した場合、脱テクスト論はどうなるのだろうか。それは小説ではない、ということになるのだろうか。
 仮にそれを小説の範囲に含めるのならば、批評から作品論が消え去り、(メタ批評としての)作家論が復興することにはなるまいか。

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