メモ:あたりまえのこと(だがそれを言う人はなんとすくないことだろうか!)

2012-03-22 – 偽日記@はてな
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120322

具体性抜きで「実感する」ことは可能だろうか。「xがある」ということを言うために、必ずしもxの具体像が必要なわではないだろう。ある抽象性、形式性によって実感を得ること。
たとえば、今から一万年後、二万年後の人類の姿を、具体的なイメージとして描くのはほぼ不可能だろう。具体的であればあるほど、そのイメージはいい加減で嘘くさくなるように思われる。ただ、現生人類が現れたのが18万年くらい前で、国家が出来はじめたのが3万年くらい前だということを考えて、後ろへと延びる時間を前に投射することで、彼らが一体どんな生活をしているのかを具体的に想像できなくても、一万年くらい先にも人間は普通に「いる」という感じだけは実感できるのではないか。おそらく、現在我々がもっている歴史も遺産もほぼ全て忘れられているだろうし、別のものに書き換えられているだろう。そもそも地形や気象条件、資源などの状況が根本的に異なっているだろう。文明といえるものが維持できている保証もない。それでも、人間は生物学的にはこの18万年まったく進化していないままなんとか生き延びてきたのだから、あと一、二万年くらいなど余裕で行けるだろうし、進化するとも、急激に賢くなるとも思えないとしても、内実は相変わらずあんまりかわらないままでも、なんとかして「いる」のではないか。
これは厳密には、具体性なしに実感するとは言えないか。ある具体性(過去の18万年)によって生まれる実感を、具体性が空項である未来(一万年後)へと変換することで実感を得るということになる。この変換過程が抽象性(形式性)だということになる。

そして、まさにこの意味で私は作品をつくる(美術)というものは、抽象化(形式化)の「技術」なのだと繰返し言っているのだが、ほとんど理解されないのである。

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