KKTNK @ AYM|MGR 2011 NATSU

田中功起 : 雪玉と石のあいだにある場所で
 一昨々日(木曜日)、終了前ギリギリでやっと見てきたわけですが。
 僕が最後にご本人を見たのはアメリカに行く前の群馬県立美術館で、ということは2009年ということになるのだが(そしてその間、まさにここの意味不明で不躾な記述がなんとご本人に捕捉されtwitterでmentionが飛んできて、んでなぜかマスターの時の論文PDFを送ったりしたわけだが、まぁそれは置いておこう)、確か群馬の時のトークでは興味があることについて氏は「反応」と言っていた(参考:http://www.terrainvague.info/quotes/2009/03/post-11.html)。
 それで、その時は青山目黒でも展示をしていて、そこには確か台湾で即興的にその場にあるようなもので作った沢山の小さなオブジェ、それから路上に進行方向にモノが並べられていて、左から右へと進みながら順にそれらのモノを次のモノに組み合わせて(叩き付けたり、潰したり、投げたり、ひっぱったり、かぶせたり)進行して行く”反応していく”過程をおさめたビデオがあったと思う。
 2009年にこれらをみたりトークを聞いたりして、それまで(ループのビデオとか)each and everyとか夜のビデオとかpeople doing stuff(だっけ?)とか、割とどこにでもある(否、ありそうな)状況から不思議な/奇妙な瞬間(いや、複雑な時間/空間の経験、というべきか)を発見し記録する人だと思っていたけれど、むしろ「そういった事象に人、或は事物がどのように「反応」を返しできごとが生成するのか」といったところに興味が移行いるのかしら、と思って妙に納得したのを憶えている。
 で、LAで2年間たって「青山目黒で個展」←イマココ、と、まぁ私の理解ではこういうことになったわけだ(もちろん、その間artitの連載とか、podcastとか、それからtwitterもチェックしていたけれど)。
 感想としては「うーん、そっち行ったか」という感じが強い。言うまでもないが、つまり「(反応っていっていたのは)うーん、そっちに行った(展開した)のか」という意味である。これは、とりわけ葉っぱ売るビデオについて。筋として大変分かりやすい、むしろ分かりやす過ぎる。もちろん、引き合いに出すだけで十分なはずのデビッドハモンズとつげ義春を、なぜか鉛筆で模写しなおすあたりの過剰さとかに、一朝一夕に解釈できない部分があるのだけれど、とはいえ些か分かりやす過ぎやしないか。チーズとゼリーも同様。だが、それはまぁそれで真摯な感じもして良いのかもしれない。(この傾向は、写真だけしか見ていないけれど、コーヒーを車の屋根の上に乗っけて走る作品、などからも薄々感じていた)
 個人的に最も解せないのは、葉っぱの真摯なビデオを流しているその脇で、他方そこはコマーシャルギャラリー”らしく”、写真等を作品として普通に(結構なお値段で)「売っている」ということだったりする。もちろん別に売るのがダメだみたいな話ではないし、チーズ写真も同じものがチープなコピー紙に拡大プリントされて”販売作品”の後ろやとなりにベタベタと貼ってあるという配慮もあって、ちゃんとしてんなぁとは思うが、ギャラリーの隅に所謂あの赤丸シールが貼ってある”例のあの紙”(そして”あの紙”には遊びが無い)が見えてしまうと、ちょっと醒めた。ビールケースとか酒の空き瓶とか、変な木っ端とか、あるいは借りてるはずのモニターとか或はギャラリー自体も、全部売ってしまえば良いのに(が、それも凡庸か)。いずれにせよモノを売るっていう仕組みを作品の中に構造として取り込んだならば、その作品自体を売るという時に、何かしらの工夫がないとまずいんじゃないか。
 一方で、展示替えというか、インスタレーションというか、展示の方法自体はとても面白かった。壁に残されたねじ釘(かつて何か吊るされたらしい)やテーブル、ビールケース及びその他の配置、それからかつてのそれらのモノの配置写真がこれまたチープなコピー紙で壁にべたべたと。そこから空間の推移を推測し、配置されたモノの位置関係の変化を予測すること(かつてこうであった⇄これからこうであるかもしれない)は大変面白かったし、最終日前日twitterでの答えあわせ的な展開もあいまって楽しかった。正解率は30%ほどだったけれども。
 とまぁそんなわけで、やっぱり個人的にはコマーシャルで見るより美術館とかで見る作品の方が好きだわ、ってことで横トリには行こうと思う。

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