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2012/10/19

Exhibition

神田コミュニティアートセンタープロジェクト
TRANS ARTS TOKYO

実施日時:2012 年10 月21 日(日)~11 月25 日(日)12:00-19:00 (火曜日休み)
会場:旧東京電機大学校舎11 号館ほか(東京都千代田区神田錦町2-2)
参加料:500円(期間中何度も使えるパスポート制です)
WEB:http://www.kanda-tat.com/
こちらではオープンスタジオをしています。
本当にオープンスタジオなので、散らかしたり、片付けたり、立ったり、寝転がったり、作品を作ったり、作らなかったりしています(毎日いるわけでもありません)。11月中旬ぐらいだと、何かしら見るものができている可能性はあります。
会場で興味を持って頂けた方にお会いできたら、作品を成立させる方法論を考えることについて、おはなしでもできればと思っています。

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2012/09/28

Exhibition

隅田川Art Bridge
隅田川新名所物語2012
GTS
[会期]2012年10月27日[土]―11月7日[日]
[時間]10:00~17:00(最終入場16:30)
[会場]隅田公園リバーサイドギャラリー (台東区花川戸1-1 隅田公園地下) 
※入場無料
[WEB]http://gts-sap.jp/modules/ev_iap/index.php?page=article&storyid=40
企画の意図は以下のようなものらしいです……が私のような者にとっては、必然的に「観光」や「名所」といったような枠組みを吊り支える制度自体と美術作品がいかに関係ないかをベースにして作品が成立せざるをえないのが皮肉と言えば皮肉です(笑)。

◎「隅田川新名所物語 2012」展
出品者が事前にこの地域のリサーチを重ね、各々新たな視点からこの地域の隠された『名所』を見つける。それぞれの探索、取材から感じたこの地域の歴史の断層を、主に絵画やマケット、ドローイングなどの作品に作り上げていき、最終的に10月下旬からの『隅田川新名所物語2012』展を開催。
◎「隅田川新名所物語」ガイドブック (展覧会場にて配布)
「隅田川新名所物語2012」展出品作家の作品図像と、その作品の背景となった取材地点をマップ等を絡めて紹介するガイドブックの制作。
◎出品者によるアーティスト・トーク
10月27日[土]、28日[日]、11月3日[土]、4日[日]
各日ともに 13:00〜15:00

お暇でしたら、スカイツリー観光のついでにでも(苦笑)お立ち寄り下さい。
以下、観光について。おなじみのシアトリカリティにおけるプロセニアム←→キャンプ対立的な話ですけれども。(一瞬、ソンタグのCampをテントと張る野営のCampと混同しているような気がするのですが、全体の文意としては状況に属さないオスカーワイルド的ダンディズムな切断と野営に、ホモグラフとしてのCAMPを捉えているっていうことになるんですかね)
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/module/Study/OKK051129_theater2/index.html

現代における劇場の可能性──インタビュー〈2〉
【岡崎】 基本的にマイナーな美術批評家でしかないフリードは、スーザン・ソンタグのような売れっ子の批評家の見解に異を唱えていたように見えますが、けれど問題構成でとらえるとシアトリカルという問題設定自体、ソンタグが『反解釈』で行った批評、特に「キャンプに関するノート」で書いたものと重なっているのですね。キャンプというのは、非常におもしろい概念です。これを僕なりに分かりやすく説明すると、キャンプはどこでもできる。工場でも戦場でも、公衆トイレであっても。観光地でキャンプするのでなく、キャンプするとそこが観光地になる。というわけでキャンプは、その場にいながら、その場にいず、無関係にその場を観察するという装置となる。「キャンプ」というのは関係の切断を意味している。ソンタグが、欲望を抱かずにポルノグラフィを見るのがキャンプであるという。ならば、いかがわしい歌舞伎町にテントをはってキャンプするのも同じです。その場に属していない、切断がある。そういう意味でホームレスはみんなキャンプ趣味でしょう。キャンプしている人はその場にいながら、その場の外にいる。宇宙人みたいなもので、まるで無関係なエイリアンのように欲望も利害関係も離れて観察している。それは一種のエイリネイション(疎外)であり、観客の側から主体的に行われる異化効果です。それがキャンプですね。
 ソンタグによって定義されたキャンプの面白い所は、いわゆる60年代の演劇が街頭に飛び出し、現実的状況に入り込んで現実的なハプニングとして熱狂を引き起こすものを追求するものが多かったのに対して、キャンプの重要なポイントはむしろ状況への無関心であり、非熱狂、欲望の切断、場からの切断にあったことです。対象に対する美しいとかきれいだとか、汚いとか、反発だとか感情を徹底的に切断して、クールで感情移入しないのがキャンプです。オフ・ミュージアム、劇場の外に出る、ということでは似て見えても、両者はまったく両極端に離れている。熱狂=ホットとキャンプ=クールなわけです。熱狂型がルソーのいう意味で観客が主体的に確保する劇化=同化=感情移入の技術だとしたら、キャンプは観客が主体的にコントロールする「異化」の技術である。双方とは劇場というハードな建築装置、ハコモノに依存しないで成立させようという点では同じですが正反対の性質を持つ。
(……)
【岡崎】 60年代の演劇や美術は、見る側と作る側の切断される装置を批判しようとすると、どうしても単純にルソー主義になってしまった。けれど、権力によって切断を行使されるのではなく、その切断を方法論として我々が私有化して、自由に切断、接合する手段としてあるなら、どれほど深遠で高尚なものとして提示されたものでも、キャンプ的態度によって全てをキッチュにしてしまうこともできるし、逆にキッチュを高尚なものにもできる。今までの態度に同化しないという事ですから、偽者も本物もなくなる。いわば通常の疎外論ならばルソーへと傾倒していくのですが、これは疎外(エイリネイション)という効果を生産的に読み直したといえるでしょう。
  それで第三項のキャンプというものを、「組織」という面からもう少し詳しく述べると、これは脱組織なわけですよ。切断していくのです。マス(大衆)として組織されてしまった観客が、一人一人の個人になる方法論としてキャンプはある。相互に無関係になることです。それは外から見ると相当関係が壊れていて、皆が妙に無関係に切れて勝手にやれということでもあるけれど。
  ソンタグの言い方だとボードレールの精神的な核心もキャンプです。彼の恋愛モデルでは雑踏の中で偶然すれ違った人への恋であって、それ以上の関係を結ばない。ダンディーです。ダンディーの基本は世間的体裁との切断にある、どれほど恥ずかしいことをしていても平然としている。世俗的に規定された属性、価値概念から切断する。他者から承認されない価値観を平気でもち、社会関係や権力やお金など、既存の利害関係に還元されえない価値、プライドにすべてを賭ける。誰とも連帯せず、平然としている。これがダンディーであり、モダニストの基盤だとすれば、むしろキャンプこそがモダニズムの基盤にあるということになる。その先駆者がボードレールであり、「虚言の衰退」のオスカー・ワイルドだった。

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2012/09/10

いぎりす物語 at Nottingham UK (DAY4 or 4days)

1日目
成田→ヒースロ(入国で揉める)→バスでノッティンガム→受付→部屋(鍵が無くてどうしよ)→鍵ゲット(ウルグアイの人ありがとう)→寝る
2日目
インターネット使えずiPhoneは海外モードで役立たずネット孤立状態→とりあえずランチ(オープニング)→町でsim買う(3はPaygmicroSimでもukクレジットカードでしか売らない宣言される。結局t-Mobile10£PaygSim)→下駄t-mobileを嫌う→iPhoneは諦め、結局ネット乞食状態(到着連絡などできず)→午後はお茶会→その後宿にファイルなどをとりに戻る→ネット復旧試みるが失敗→夜はオープニングパーティ(一次会:ビールがバドワイザーでちょっと笑)→その後2次会へ(超歩いた)→深夜タクシーで帰る
3日目
相変わらずのネット乞食状態→だがwinだと繋がるという情報、確かにそうだった→だが結局メールチェックなど困難を極める(とりいそぎ到着連絡だけ)→粘ったが無駄で昼前にシティに→VAの展示をチェックしつつ、改めて3UKのsimの購入に挑戦→店員さんが結局通常simをカットしてくれることに→gonzo unitで自分の作品をチェックして隣のパブで飯→食べつつsimアンロック→失敗(simなし表示)→良く見たらカットミスorz(店員さん親切だが手先は器用ではなかった)→しかたなくバスに乗ってVA=disorder@primary→アレックスに持って来たものを渡す→city→ボニントン@NTU→ノッティンガムコンテンポラリーをチェック→キャッスルで飯→モーリシャス&コートジボワールチームとローンチパーティ→11時頃までライブなど→カナダの人とバスで帰ってくる→その後ネット解決できず→依然野良wifiを拾うネット乞食状態継続
4日目
朝再びメールチェックに挑戦→macのethernet設定にdnsの欠落を発見→手入力→解決!→いそぎメールを読むだけ→cityへ→1£店でハサミとsim(為念)→va@paul smithなどチェック→小腹が空いてヌードル→食べつつ切りミスsimをハサミで切り直す→下駄に重ねるとあっさり3UKの電波!→smsでセッティングしつつネットも快適→va@maltcross→メール書きつつ移動(map!)→waverleyはsoldoutで見れず→st.petersCHは展示が無く→gonzo今日も誰もいない→broadwayに移動もinstallationが解体されて見れず→ビール飲んで夕方からreadingのパフォーマンス→キャッスルで飯→バスで帰る→大量にメール&ブログ&fb&tw→風呂洗濯寝る(だろう)
goodnight

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2012/05/24

メモ

http://correlative.org/exhibition/kiso2005/index.html

課題
すでにある事物(ペットボトル、眼鏡、帽子、ペン、服、椅子等々)を分析し、事物が構成されている部分同士の関係─シンタックスを読み取り、それを 使って建築を計画しなさい。その際、何の建築なのか─彫刻家の住居、図書館、宇宙船、温泉施設、芸術学校、刑務所等々─も考え、提示する。
1
事物には、すべてシンタックス―部分同士の関係性がある。それを読み取り、事物同士を結びつけてみる(Mappingする)。それにはまず、それぞれの 事物を部分に分解し、機能を分析する必要がある。例えば、コーヒーカップであれば、コーヒーを貯める器部分、取手、器部分を支える高台。そのコーヒー カップを「顔(頭)」と結びつけるとすれば、器部分は頭蓋骨、取手部分は鼻、高台は首、とみることができる。では、同じコーヒーカップを「草」に結びつ けようとするとどうなるか。液体が注ぎ込まれ貯める器部分は、水分を吸い上げ貯蔵する草の根にあたるとも言える。そう読み込んだとすると、器部分は、通 常のコーヒーカップ使用時とは逆に、高台を支える部分となり、高台は根に支えられた葉の部分としてみることができるだろう。
2 
図面を、細部にまで情報が詰め込まれたリアリティのあるものにしていくには、事物から見つけ出したシンタックスをどこまで読み込むことができるかにか かっている。そのためには、完成品(建築)がどのように理解され、使用されるか─機能性を考えなければならない。使われ方/何のための建築なのか、 を考えなければ、細部(ディテール)を埋めていくことはできない。
3 
事物と事物(例えば、コーヒーカップと建築)を結びつけるためには、それぞれの事物がもつ多元的な『機能』をいかに読み込み対応させるかが重要である。
(四谷アート・ステュディウム 木原進)

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2012/04/27

とりあえずあったこと

オーストラリアに行ってシドニーで展示のお手伝いをしてメルボルンで妻のお知り合いにご挨拶して帰ってきたら4月で、翌日健康診断その翌日が入学式であったのであり、ガイダンスやら何やらをやりつつ引っ越し荷物をまとめて12日に引越し、大学にアトリエの荷物を運搬し、3日後に妻が引越し、家を片付けながら書類だ電気ガス水道の契約だ銀行口座の開設だ何だと手続きを済ませつつ、大学の奨学金に2つほどアプライし、大学では履修の登録をして年金と健康保険と転籍と免許証の住所変更と銀行やクレジットカードの住所変更を終えたら4月が終わろうとしているのであった。

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2012/03/23

近況

ここ数ヶ月色々あって慌ただしくしていたのだが、何があったかだけは書いておこうと思う。
まぁ確定記述的なことは私自身にとって重要な事ではないのだが、実は(といってもだいぶ周知のことだが)決してに「確定記述的な事」と言えないことも含まれているので、記録として記しておこうと思うのであるが、では何があったかといえば大きく分けて3つあり、1つは昨年末に2つの美術大学大学院の博士課程を受験し合格し最終的に某国立の方(しかも油画領域である)に4月から入ることになったことであり、2つ目は結婚したということであり(つまりこれが単に確定記述的なことと言えないことであり、要は「他者」でありながらもはや「他者」でないという「かなり特殊な他者」をもつというこで、これには色々思うところもあるのだがシンプルに言えば「これは私にとって『自然な』こと」なのだということだ)、3つめは前述の事象に随伴的な事柄であるのだが来週から10年ぶりに海外に(生まれて初めての南半球に)行くという事と帰ってきてすぐに住み慣れた善福寺公園の畔から引っ越すということである。引越先には素晴らしい3口コンロ+コンベックが据え付けられていて楽しみである。

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2011/11/29

作品の終わり

一年程前に新宿ジュンク堂で『組立』を買ってからずっと気になっている。
佐藤雄一氏のことだ。全くの同世代(というか同い年)であるがゆえ、氏の教養の深さには深い尊敬と一縷の嫉妬(否、一縷の尊敬と深い嫉妬か)を抱いている事は隠さず表白しておくが……まあそれはよいとして、問題はやはりサイファーだ。もっともそれ自体は試みとして面白い。面白過ぎると言っても良いし、制作の方法論の1つとして正鵠を射ている。
興味深いのは慎重に「エクササイズ」という言葉を使っていることだ。制作ではない、エクササイズだ。従って作品の完成、「終わり」は周到に回避されている。つまりこのエクササイズにおいて、作品は口から出力されると同時に一時的な状態におかれ、来たるべき修正、改変、発展に開かれ続けていることこそが、この方法論の勘所なのではないか。
だとすると、やはり気になるのはどの時点で作品の完成を確定するのかということだ。どこで制作中が終わりを迎えるのか。「完成」とするのか。無論、サイファー自体を1つの運動として作品と定義するというアクロバティックも無くはないが、もしそういうトリッキーな論理が用いられるのだとすれば、私としては「状況の構築」と同様な矮小な問題系に落ちて行ってしまうのではという疑念を持たざるを得ない。
といったところで、氏のことだ、もっときっと複雑な射程で問題系を捉えているのだろう。私ももっと勉強がしたい。

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2011/11/06

クラウス@すもも画報

ロザリンド・クラウス–批評の方法(1)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080428/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(2)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080504/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(3)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080507/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(4)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080516/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(5)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080525/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(6)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080602/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(7)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080627/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(8)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080706/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(9)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080711/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(EX)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080715/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(10)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080814/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(11)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080818/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(12)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080820/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(13)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080824/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(14)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080904/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(15)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080908/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(16)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080910/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(17)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080912/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(18)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080913/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(19)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080916/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(20)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20080927/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(21)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20081002/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(22−1)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20081008/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(22−2)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20081024/p1
ロザリンド・クラウス–批評の方法(22−3)
http://d.hatena.ne.jp/argfm/20081209/p1

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2011/10/08

メモ

モノマネ
(類似、イメージ、差異)
(システムの自立(諸感覚の能動性と統合、自律系)、再現前、re-present、代表)
手品
(ブラックボックス、中国語の箱、類推、事後性)

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2011/10/03

メモ

岡崎乾二郎【見ることの経験】
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/okazaki/dan064_06.html

フリードの論で可能性が感じられるのは。没入という概念よりも、むしろ視覚を差異性として、捉えようとしたところにある。しかし、こっちは十分に展開されていません。この論を展開していけば視覚は消去されるどころか、絶え間なく分岐生成していくという、その進行しつつあるプロセスの中でだけ、はじめて、視覚は可能になるとさえいえるはずなんですが。
……絵画であれ彫刻であれ建築であれ、それらは視覚空間の問題であると同時にやはりそれをどう見るかということでは、やはり見る側の問題でもあると?
ええ、絵画だけではないですが、変換の過程ということで、たとえれば、ものを視るという行為には、そもそも文章を読んだりするのと同じ側面があるのではないかと考えています。文は、単に単一なシンボルとしてだけ成立しているわけではない(イコノグラフィに解消されるようなものではない)。
 読むというのは、むしろ推理、学習の進行し続けるプロセスです。単語を読むとは、その語に代わりうる複数の語のパラディグム(変換可能性)を見てとることであるし、文(そのシンタックス)というのは、さらにこんな単語が複数そこで出会うということであり、つまりはそこで出会っているのは、複数の異なるパラディグムだということになる。
 単語とはわれわれの視覚が捉える個々のイメージにほかならないし、絵画というのは、こうした潜在的に可能な複数の異なるパラディグム――つまりは両立しえない複数の空間が出会う文章のような場にほかならないわけですね。マサッチオやブルネレスキの作品を例にして、示したかったことは一言でいえば、そういうことだったと思います。

※この見出しには「 絵画、両立しない複数の空間が出会う場」とあるが、これはロウの透明性(相互貫入)との関係でもって理解すべきだろう。建築の透明性というアイディアを美術作品についても敷衍するならば、パラディグムの問題として捉えなおすことが可能ということだろうか。

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