note-04《来るべき個展に向けて》

忙しい私のための55note
http://www.froggy.co.jp/seiko/55/55-4/55-4-2.html

 では、チェスとは何か。
(略)
 地球上で人類が持つことになったある種のボードゲームは、すべて「脳と四次元」に関係があると僕は考えている。サイコロなどを使うことによって偶然性を導入したゲーム以外のボードゲーム。わかりやすくいえば、将棋やチェスは人類が四次元を観念として持つための道具だったのである。
(略)
 決してオカルティックな考えの中に入り込んでいるわけではない。僕のような初心者は別として、例えばチェスのグランドマスターは盤面を読む時に数限りない選択肢に分かれた未来をほぼ同時に思い浮かべていると考えられる。将棋の羽生名人の話などを読むと、それはコンピュータの演算のようにしてではなく、ある種のイメージとして脳の内部に出現する。
(略)
 目の前にひとつのコップがあり、なみなみと水が注がれているとする。それがボードゲーマーにとっての現在の局面とすることが出来る。さて、我々はその「コップと水」の二日後と三年後、あるいは五十年後をありありと同時に想像することが出来るだろうか。「コップと水」ばかりではない。それが置かれたテーブルや部屋や、時には窓から見える空の雲まで含めて、我々は異なる「時間」と「空間」を一挙に把握出来るだろうか。
(略)
 ボードゲームの世界に存在する何人かの名人は、いわばそれが出来ると考えられる。むろんゲームの進展と現実を混同してはならない。だから正確に言うと、少なくともグランドマスターたちは「時間」と「空間」の無限の分裂、そしてそれらの同時的な観想に熟達しているのである。
 これは四次元に近い。限りなく近い。
(略)
“「コップと水」の二日後と三年後、あるいは五十年後”を一挙に”観る”こと。チェスはそうした思考を我々に強制する。
(略)
キュビスムは本来、そうやって「時間」と「空間」を多数化させ、また同時的に把握するための運動であった。しかし、同じことをするならばチェスプレイヤーの脳内部に存在する状態にかなわない。
(略)
 ピカソは素晴らしい。だが、退屈だ。そこには「泣く女」の二日後と三年後、あるいは五十年後、いやそこに姿などなくなった千年後を同時に描く思考がない。またはいくら分割した空間を統合したところで、それはたかだか十に満たない視点からの営みである。より多く時を超えればいいと言っているのではない。360度から把握するならCGがあるとかいうもっと退屈な考えに引きずり込まないで欲しい。問題はあくまでも、「時間」と「空間」の無限の分裂、そしてそれらの同時的な観想にあるからだ。ダビンチは
当然そういうことをえながら描いていたに違いない。
 だから、デュシャンの芸術的関心は実にチェス的である。三次元でものをとらえることの窮屈さ、そこにとどまり続けている愚かさに絵画がとらわれていていいのかと彼は根源的に考え、そしてやがて絵画そのものを捨ててしまう。チェスをしながら光と影について考え続ける。

http://www.froggy.co.jp/seiko/55/55-4/55-4-3.html

四句否定。
(略)
「私であることはない/私でないこともない/その両方であることもない/その両方でないこともない」
(略)
 即中即空即仮。
 三諦論はそう言う。
 四句否定にせよ、三諦論にせよ、根幹で目指されているのは間違いなく”矛盾を一挙に把握する脳”である。仏教的には矛盾と言わないのだとしても、不動なものと滅するもの、そしてなおかつ仮に存在するものを一挙に(即中即空即仮)受け入れる脳こそが修行によって求められていると考えてよい。「私であることはない/私でないこともない/その両方であることもない/その両方でないこともない」という否定を
順を追って論理学的に、または哲学的に解きほぐすことは可能だろう。だが、すべては「即」でなければならない。
(略)
 ダビンチが考えたのは”世界把握をするにあたって絵画はどのようにあるべきか”であったはずだ。そのために遠近法を確立してみせた。ところが、その後にわんさかと出てきた絵描きの誰一人として、世界把握としての絵画を根本的に考えなかったのではなかろうか。遠近法をただの技術として受け取り、三次元を二次元に閉じこめるにあたっての哲学を忘れた。二次元が三次元に見える絵画の技術の嘘を、ただ漫然と
継承してそう見える罠と脳、あるいは世界との関係についてを捨て去った。
“網膜快楽的”な絵画を馬鹿同然とみなしたデュシャンは、世界を把握する技術としての絵画を目指した。そして、それをすっかり諦め、やがて諦めをユーモアで示し続ける。ユーモアは人類の脳の限界を示すものでもあり、そのぎりぎりの場所まで追いつめたことの証左でもあったのではないかと僕は思う。

※くりかえし述べておくが、埴谷雄高の「虚体」とは、時間と空間とを超越する(一点に圧縮)ことによって、存在にその可能態すべてが凝縮された、きわめて「四次元的」な存在形式として構想されている。

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