note-05《来るべき個展に向けて》

ティカαと福永信のフレームワークについて
やくしまるえつこ『ヴィーナスとジーザス』

福永信『コップとコッペパンとペン』

 いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい。
 図書館で調べものをしていると、ここに座ってもかまわないかな、と聞こえ、早苗の周囲に煙草の匂いがただよった。煙はすでに消えており男の子の姿はハッキリと見えるのだったが、早苗は本に視線を固定したまま、動かなかった。バサバサと新聞をめくる音が聞こえ、声をかけた後は早苗のことなどまるで気にしていないふうだった。胸が高鳴るのを知った。
 早苗はそれまで男の子と話をしたことなんかなかったし、ましてからだを寄せあったことなどない。それが今では息を吐くときのすぴーという音すら聞こえるほどである。
「外はすごい風だ」
 話しかけられたのだとわかってもどうしたらいいのか判断がつかなかった。うつむいていると、男の子の隣に別の男の子が腰を下ろした。もう言葉を出すことはできなかった。半ば開いた口からため息がもれた。
 父を早くになくし、女子校出身、一人娘の早苗にとって男とは、未知なる存在であった。
 それが近所もうらやむほどの仲の夫婦となった。腹には子供までいる。
「窓、閉めてくださる。楽譜が飛んでしまうから」
 早苗は鍵盤から指を離し、ヒラヒラとめくれそうな楽譜を押さえた。開いたページと次のページがこすれあうかすかな音が消えた。窓が閉まるとさらに静まった。
「ねぇ、あのときのこと、おぼえていて?」
 夫の横顔に向かって話しかけた。窓の外で風船が激しくゆれていた。風船のからまった木は頑としてゆれず、室内の夫婦はガラスに映り込んでいる。
 新聞をめくるのをやめ、夫は答えた。
 「忘れるものか。何しろ、芽が出てふくらんだくらいだから」
 夫が自分とはちがうことを考えていたと、残念に思ったが、それはかえって夫らしさの現れのようにも感じられた。なんで笑うの、と夫は不服そうに右手を挙げた。もし、あのとき、あそこで背伸びをすることがなければ、二人はたがいの思いを知ることなどなかったし、結ばれる運命も訪れなかったはずである。ワンピースがしわになるのもかまわず、早苗は夏の畳の上にゴロッと横になった。イグサの香りが鼻をくすぐった。ほつれた赤い糸の先をたどっていくと窓の外に出た。
 早苗の死については、様々な嫌疑が夫にかけられた。

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