「ローマン・オンダックをはかる」について

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以下はTwitter上での会話( https://twitter.com/oqoom/status/572968165560475649 )へのリプライです。
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まずは「ローマン・オンダックをはかる」、とても興味深く拝見しました。

その上で、先にTwitterで言いたかったことは、(「唯名論的」と言ってしまいましたが)もう少し正確に言えばたぶん「「固有名」とか「確定記述」というような問題の枠組み」ということになろうかと思います。以下、もう少し具体的に書きます。

私がこの展示を見たとき、その時点で作品というか展示を物理的に構成していたのは(まだ)何もない空間とキャプション(訪問者への指示を含んでいるので、インストラクションと言うべきでしょうか)の、2つでした。ギャラリーへの指示書もあったらしいということを後に知りましたが、私はその時は気づきませんでした。

そこで私は、キャプションを読むことにしました。そして読みながら、(正確な文章は忘れてしまいましたが)肝は「あなたがローマン・オンダックだったら……」というような「あなた」という言葉だと考えました。そして私は当然「オンダックではないのでなんか蚊帳の外だな」とか、そして「ここは日本だからオンダックが来る可能性は限りなく少ないよな」とか、「でもその可能性は原理的にゼロではないよな」とか、「まぁそうはいってもスロバキア遠いしな」とか、そんなことを考えました。

そんなことを考えたのち、とはいえ「これを(つまりオンダックのみに向けられた文章を)蚊帳の外のわたし」に読ませた「奥村雄樹」というアーティストがいるのだ、ということに思い至りました。ならば、「奥村雄樹」は、このキャプションを含む作品空間(展示)を設えることで、それを読む「わたし」をどのような位置に置こうとしたのだろうか……。

そして再びキャプションに戻った時、やはりその中の「あなた」という言葉が、この作品を見ている蚊帳の外の私が、唯一この展示と接点を持つことができる点なのではと思いました。それこそ「固有名」によって指し示されるもの(”ローマン・オンダック”とか”金井 学”とか)は、確定記述的な要素の羅列(1966年生まれ、スロバキア人……だとか、1983年、東京生まれ……だとか)では原理的に汲みつくせないし、ましてその要素の真理性は究極的には証明できないので、「この「ローマン・オンダックである(かもしれない)あなた」は私のことかしら、と言えないわけでもないしな」と考え、なんだかあの空間の白い壁で測られるべき存在(オンダック)とそのキャプションを見ている「わたし」の間で、なんだか宙づりにされてしまったように思ったのです。

ところで、その時、「この宙づり感は、奥村さんの以前の作品から感じたことに近いな」とも思いました。きちんと作品を拝見できているわけでもないのですが、「Jun Yang….」の翻訳者の言葉の宙づりさ(いったいこの言葉の話者、主体、主語が指示する存在は誰なのか?)とか、風桶展の時のインスタレーションや六本木クロッシングの展示の際の「これを作った(これらの作品を用いて(編集して/翻訳して、再作品化しようとしているようにも見える、奥村雄樹という)アーティスト」の宙づりさ、とかの感覚に似ているなと思い、そういう点で、今回の作品は、過去のプラクティスに連なるものなのかな、と思ったのです。

そのような感想の上で(とはいえ、この見通し自体が、単に邪推なのかもしれませんが)、再び「ローマン・オンダックをはかる」を振り返ると、やはりこの展示では、「なにもない」「なにも起こりそうにない」ということが、強調されすぎているのではなかろうか、とも思ったのです。この作品と、作品を見る私とを繋げてくれるのは、キャプションの文章しかない。

もちろん文章を読みながら宙づりな感覚ももったのですが、しかし、この宙づり感みたいなものは、「わたし自身」と「固有名」や「確定記述」が交わる場(例えば、役所で実印登録をする時とか)にも浮かび上がってくるものでもあるよなぁ、とも思うのです。したがって、最終的にわたしとしては、「この作品を単純に「「固有名」というものが持つ不思議」」みたいな形で受け取るのは、あまりに貧しい受け取り方だろう」と考えるに至りました。

そこで最終的には、おそらく、あの作品はこれを設えた奥村さんの存在、そして実在するオンダック本人の存在も含めて考えるべきなのではないだろうか(しかし、これについては僕はまだ十分に考えられていません)ということにたどり着いたのです(←イマココ、ということです)。だがしかし、そうは言っても今回のようにきれいに「何もない」と、「固有名」のような問題を扱っているのだというような、わりとわかりやすい話に持って行ってしまうこともおきやすいような気もして、「唯名論的なフレームに落ちてしまいやすいのではと思った」と申し上げたのでした。

そしてそうは言ってみたもの、これはあまりにグルグルと考えすぎなのかもしれない、とも思っています。というのも、シンプルに言えば、やはりあの空間には「何もなかった」と言ってもいいのではないか、と思うからです。そしてグルグル考えたのは、それが「何もない」がゆえに、どこまででもあらゆるものを読み込ませられるような構造になっているのではないか。

ですが、もしそうであるならば、ジャッドやモリスの作品が孕んだ問題が再召還されるような気もします(何もない、空の箱であるが故に持続してしまう時間。フリードはこれをバッサリ斬った)。

奥村さんの作品には、個人的にすごく惹きつけられてきました。今回の作品ももちろんそうです。
これまでの作品には、それを見ている私が、見終わって語りたい/指し示したい対象がありました。例えば、そこには言葉や、空間に響き合う音声や、配置された映像がありました。そしてそこに亡霊のように翻訳者や作家としての奥村さんの存在が覆いかぶさっていた。そしてその状況を見て魅力的に感じ、鑑賞者であるわたしがその構造を説明しようとした時、なにをどう指し示したらよいのか、ふさわしい言葉がみつからない、言葉が宙づりになってしまう。複数の主語(主体)、異なる言語の狭間で、指し示したい存在は見えているのに、そこに言葉を与えることができない。自分が翻訳者になって居心地の悪さを味わっているような、不思議な感覚を覚えました。

でも今回は、少なくとも私が見た時点では何もなかった。むろん、これはきっと奥村さんのプラクティスの新たな展開や発展が企図されていてのこと、なのだと思います。それがなにを意味するのか、これから鑑賞者としての私は考えてみたいと思っています。

すみません、ずいぶん長くなってしまいました。
そもそもオンダックのことも「宇宙をはかる」とかチョコの紙の作品ぐらいしか知らず不勉強なので、「違うんだよ、他にちゃんと文脈があってだな……」というレベルの見当違いな感想かもしれません。どうぞご容赦くださいませ。

なにはともあれ、作品について何か書くというのは、はっきり言えば見ている側が試されるということで、なんとも恥ずかしいです。

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