作品の終わり

一年程前に新宿ジュンク堂で『組立』を買ってからずっと気になっている。
佐藤雄一氏のことだ。全くの同世代(というか同い年)であるがゆえ、氏の教養の深さには深い尊敬と一縷の嫉妬(否、一縷の尊敬と深い嫉妬か)を抱いている事は隠さず表白しておくが……まあそれはよいとして、問題はやはりサイファーだ。もっともそれ自体は試みとして面白い。面白過ぎると言っても良いし、制作の方法論の1つとして正鵠を射ている。
興味深いのは慎重に「エクササイズ」という言葉を使っていることだ。制作ではない、エクササイズだ。従って作品の完成、「終わり」は周到に回避されている。つまりこのエクササイズにおいて、作品は口から出力されると同時に一時的な状態におかれ、来たるべき修正、改変、発展に開かれ続けていることこそが、この方法論の勘所なのではないか。
だとすると、やはり気になるのはどの時点で作品の完成を確定するのかということだ。どこで制作中が終わりを迎えるのか。「完成」とするのか。無論、サイファー自体を1つの運動として作品と定義するというアクロバティックも無くはないが、もしそういうトリッキーな論理が用いられるのだとすれば、私としては「状況の構築」と同様な矮小な問題系に落ちて行ってしまうのではという疑念を持たざるを得ない。
といったところで、氏のことだ、もっときっと複雑な射程で問題系を捉えているのだろう。私ももっと勉強がしたい。

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