未分類」カテゴリーアーカイブ

2021/10/12

ニューヨークで暮らし始めたこと、林先生のこと

ブログを更新するのが随分久しぶりになってしまった。

10月1日からニューヨークに来ている。1年この街に暮らすことになる(今日でちょうど10日ほどたった)。ニューヨークは僕にとってずっと憧れの場所で、というのも高校生の頃から聞いていた音楽もアメリカの60年代のものだったし、芸術に関しては大学院を出てから影響を受けてきた文脈はアメリカの50年代、60年代、70年代の芸術に根ざすものだったし、それを軸に僕もこの十数年、自分のプラクティスと展開してきたからだ。リー・クラズナーやフランケンサーラーがいたホフマンのスクールがあって、ポロックやニューマンやデクーニングやマザウェルがいて、ペギーグッゲンハイムのArt of This Centuryがあって、それからフランクステラを挟んで、ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズにEAT、ケージにカニンガム、それにジャドソン教会派もいて、それからジャッドやモリス、それにルウィットやマーティンやケリーや、それからそれから……僕はこういう人たちをずっと自分のPeerだと思ってやってきたように思う。

ようやくこのPeerのいる(いた)街にたどり着いた。多くはもう死んでしまっているけれど、それでも作品のコレクションやアーカイブは腐る程あって、こういう残されたもの(作品=テクストはいつでも開かれている)を通じて、彼らに会い、協働することができる(はず)だと信じていたいと思う。

文化庁の海外研修に選ばれた時は嬉しくて、しかし出発の日が迫ってくると随分不安になり、そして実際着いてみるといよいよ来てしまったと妙に臆病になってしまい、同時に時差ボケと身の回りのことで手一杯でどうなることやらという感じなのが正直なところだけれど、ようやく10日ほど経って、ブルックリンの街の汚さや貧しさと危なさにようやく少し慣れ(だが慣れてきた頃が危ない)、少なからず色々な国で活動してきて言葉の問題はある程度解消されたような手応えもあり、少しずつエンジンがかかってきたようにも思う。ブログなんかを書こうとしているのもそういうことなんだろう。

僕がこうして今ニューヨークで1年間の活動をし始める、そのような十数年のプラクティスの展開に導いたものの一つは、林道郎という人が書いたものであったことは間違いない。おそらく最初に触れたのは『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』で、それから様々なアーティクルを読むことになり、上記のニューヨークの僕のイメージもエミール・ディ・アントニオとミッチ・タックマンの映画の翻訳本を通して作られ、そしてその頃には考えてもみなかったけれど、ついに2014年には僕の博論の審査にも入っていただくことが叶い、その後、いくつかの機会に推薦状まで書いて頂いたりもした。文化庁への最初の応募も(残念ながらそれは叶わなかったけれど)林先生に推薦状を書いて頂いた。

つまり今「僕がここにいることができている」ことについて、プラクティスの内容の面でも、また実質的な面でも、僕は多くのものを林先生に負っている。

出発の直前に、林先生をめぐるあれこれが突然報道された。先生は美評連もお辞めになり、もしかしたら今後、大学もお辞めになるのかもしれない。先生のプライベートな部分で何があったのかは僕は知らないし分からない。もちろん「僕が知っている面がその人の全てだ」ということもあり得ないけれども、しかしその言明は、その人の「ある面」が明らかになったからといって、それはその人に「そういう面があったのだ」ということを意味しても、「それ以外の面はない」ということを論理的に意味しない。その「そういう面」が果たして当事者にとってどのようなものであったのかは本人たち以外に知る由もないし、「本人たちであればわかる」ということに全く疑いが挟まれないというようなことにも慎重であるべきだろう。当事者で納得がいくまで大いに話が為されれば良い問題としか思えないし、しかし、それは僕にはあまり関係がない(そして僕もまた、個人の関係において、これまでに幾人かを深く傷つけたと思う。そして、それは「その幾人か」の人以外には全く関係のない話だ)。

誰かがその人と林先生との直接的な関係について、その一面から彼を批判することが許されるならば(無論それは許されるべきだ)、僕個人が僕と林先生との個人的な関係について感謝と敬意を変わらず申し述べることも当然許されるべきだろう。

僕は今、こうしてニューヨークにいる喜びとお礼を林先生に伝えたいと思っている。林先生のTwitterのアカウントも無くなってしまって、メールアドレスは知っているけれど、このタイミングで出すべきなのかどうか逡巡しているうちに時間ばかり経ってしまう。手紙でも出したいのだけれど、もう少し落ち着いてからにした方が良いのかもしれない。ひとまずほとんど誰にも読まれることのないこのブログに、せめて先生への感謝の気持ちを少しだけでも書いておきたい。それから、僕がまだ林先生の仕事をこれからも見たいと思っていることも。

コメントを残す

2021/02/19

メモ(おしら様関連)

https://toyokeizai.net/articles/-/67108?page=2

なぜなら、哲学とは、反社会的、少なくとも非社会的な営みだからです。「いま」とか「ある」とか「ない」とか「私」など、ほとんどの人が問題にしないこと(問題にしたくないこと)を問題にするからです。そして、何より、哲学の道具は言語しかないので、というより、哲学は言語そのものなので、哲学を続けるには、通俗的・社会的言語から自分を隔離する必要がある。そして、まったく新たな気持ちで哲学言語(という特殊なものがあるわけではないのですが)、を学んでいく必要がある。

なぜなら、芸術とは、反社会的、少なくとも非社会的な営みだからです。「いま」とか「ある」とか「ない」とか「私」など、ほとんどの人が問題にしないこと(問題にしたくないこと)を問題にするからです。そして、何より、芸術の道具はメディウムによって構成される言語しかないので、というより、芸術はそのような言語そのものなので、芸術を続けるには、通俗的・社会的な既存の言語から自分を隔離する必要がある。そして、まったく新たな気持ちで芸術言語(という特殊なものなのですが)を創造していく必要がある。

コメントを残す

2020/06/20

Frank Stellaが読んでいたWooden Synagogue

建築家から入院中か何かにもらって、それがPolish Villageシリーズに展開する。

コメントを残す

2015/09/29

浅田彰インタビュー(1998) by Krystian Woznicki @ nettime.org

ついでに’Otaku Philosophy’の中に出てきた浅田彰のインタビューもやってみます。

http://www.nettime.org/Lists-Archives/nettime-l-9802/msg00100.html

Interview with Akira Asada
To: Nettime-l {AT} Desk.nl
Subject: Interview with Akira Asada
From: Krystian Woznicki
Date: Fri, 20 Feb 1998 02:48:35 +0900 (JST)
Sender: owner-nettime-l {AT} basis.Desk.nl

============
浅田彰インタビュー
宛先:Nettime-l {AT} Desk.nl
題名: 浅田彰インタビュー
差出人: Krystian Woznicki
日付: 1998年2月20日(金)02:48:35 +0900 (JST)

浅田彰は10年以上に渡って、日本におけるもっとも多作な編集者、キュレーターである人だ。東京のICCにおいて、彼は磯崎新とともに大規模な都市設計プロジェクトに取り組んできた(そこには、建築とニュー・メディアの融合があった)。新しいテクノロジーを基盤とする概念に関連する、ジェンダーとコミュニケーションといった問題を探求する若い芸術家を支援することは、また彼にとって同様に重要なことであった。

しかしながら、彼の活動はいわゆるニュー・メディアの領域を大きく超え、また彼の母国の国家という領域を超えるものでもあった。いったい、何が彼の様々な活動をつなぐ共通項なのだろうか? インターディシプリン性の孤独、ということでもないようだ。もしかしたら、彼の仕事について、それが何か単一的なもの(’Werkarchitektur’)なのだと考えるのをやめてみる、というのが良いのかもしれない。彼の著作は、カノンを作り上げようというところ向かって行っているようにはあまり見えず、どちらかといえば’直観主義的’な介入に向かっているように見えるのだ。

彼は25歳という若さで、比較的小さな国においてではあるが有名になった。
彼の『構造と力』を含む最初の2冊の著作は、国内におけるベストセラーとなった。
これらの著作は、純粋な理論として初めて書かれる種類の本であった。あるいは、これらの著作は「ポップ・アカデミズム」と呼ばれる当時の時流の中で読まれた、と言えるだろうか。浅田は後期ドゥルーズや、その他フランスのポスト構造主義の思想家を紹介した。今日の視点から見れば、彼の著作やキャリアにはこの二つの著作と同じような難問が現れており、この著作は、彼を、いまなおデリダやジジェク、また後期ルイジ・ノーノらを含む西欧の思想家たちの議論に巻き込ませていくことになったのであった。

ヨーロッパ(主としてフランス)、そしてアメリカをめぐるレクチャー・ツアーに加えて、彼は京都大学で経済学を教える時間を工面している。この1年半の間、何度か彼に会った機会に、私は彼の現在の活動の背景について質問したのである。

+++
Krystian Woznicki: 80年代における、日本国内でのポスト構造主義の紹介は、
本質的に「知識/理論の消費」という議論と結びつき、とりわけフランスの思想家たちは徹底的にマス・メディアの中で扱われ、採用されてきました。その発展の様子を話していただけますか?

浅田彰: 実際、日本は翻訳の天国です。すでに60年代、70年代において、私たちはベンヤミンやアドルノ、ドゥルーズやデリダなどの翻訳のいくつかは、手にしていたのです。しかし、それはアカデミックな場の中で読まれ、議論されていたのです。そして83年、私は本を書きました。それは今日ポストモダンと呼ばれる、フランスの理論について要約したものでした。皆驚いたことに、あの本はベストセラーになり、私を文化的なヒーローにしてしまいました。私はクレイジーなメディアの人々に追い回されるようになったのです。この私の個人的な体験は、いかに理論が消費されファッションになるのか、ということの一つの症例でしょう。ある意味では、私はまさに消費され流行になるという理論によってメカニズムを分析していたのです。しかし、ポストモダンな消費社会において、まさにそれを理論化すること、それ自身が、消費社会によって消費し尽くされてしまったのです。

KW: 今日の観点から振り返って、そこには日本に特有で顕著な状況があったのでしょうか?

AA: そうですね、少なくとも80年代にはもっとも深刻な症例を見いだすことができるでしょう。日本の消費社会は極点の、非常に発達した、ある種もっとも進んだものだったのです。例えば、ボードリヤールは消費社会を分析しましたが、しかし日本においては百貨店のマネージャーでさえボードリヤールを読んでいたのです。実際のところ、彼らは読む必要すらなかった。なぜなら、彼らはその全てをよく知っていたからです。彼らは商品に内在する価値なんて信じておらず、パロディー的な広告を作ることによって、意識的に消費者の欲望を操作していたのです。しかし、もちろんこれは世界のあちこちで起きていることの中における、ひとつの深刻な症例にすぎません。

KW: 消費の拡張的な理解の視点から、具体的な経済の将来予測や労働力などを見たとすると、いったい何が80年代における、ポストモダン理論の貪欲な消費のパラメーターだったのでしょうか?

AA: それは難しい質問ですね。少なくとも、45年(終戦)から70年代初頭にかけて、日本の文化と社会は、本当にモダニストになろうと挑戦していました。しかし、一部は経済成長の成功によって、また一部はポストモダン理論の輸入によって、人々はモダニズムについて関心を向けることは無くなってしまいました。人々は、ポストモダン時代において自身のルーツを探ろうとしましたし、またそれをポストモダン理論と統合しようともしました。そしてとりあえず、彼らは自身のルーツを、鎖国していた時代であり、全てがパロディー、パステーシュ(模造品)になった江戸時代に見出したのです。江戸時代、それはすでに消費社会の範例(パラダイム)を体現していたのであり、そこでは全てのものが引用のプロセスの中で変形され、そして非常に巧みに再利用されていました。実際、歴史の終わりを論じたコジェーヴは、江戸時代に言及して「日本における歴史は1600年においてすでに終わっており、それ以降、日本社会はすでにポストヒストリカルな状態にあった。そこで人々ができることは、すべて既になされたことを繰り返すことでしかない」と言っています。そして明治維新(1868)以降、私たちは自身を近代化することに非常に注力してきました。しかしながら、70年代、そして80年代、私たちは偽の江戸的心性の再生起に立ち会うことになったのです。そして人々は前近代的心性と、ポストモダン理論とを統合しようとしました。しかし、今やそれはゲームオーバーで、私たちはこれ以上同じゲームを続けることはできません。新たなものの幕開けの時が来たのです。

KW: あなたが、文芸批評家の柄谷行人立ち上げた『批評空間』 は、マサオ・ミヨシやE.W.サイード、F.ジェイムソンなど国内外の様々な学者を顧問委員として巻き込んでいますね。こういったことは、この文脈に関係するのでしょうか?

AA: 私たちは対話の場を作り上げたいと思っているのです。過去との対話、そして外との対話を。すなわち、私たちは西欧とアジアの学者をフィーチャーするのです。ポストモダン理論が80年代に流行したことによって、私たちはスタート地点を忘れてしまいました。1920年代から、私たちにはそこそこしっかりとしたマルクス主義の伝統があったのです。そしてそのような中から、小林秀雄——ワルター・ベンヤミンと比較できるような人ですが——のような人が出てきたのです。50年代、60年代、私が学生だった頃にはモダニストのカノンがありました。最近なくなってしまいましたが、丸山真男という日本のマクス・ウェーバーとでもいうべき人がいて、近代化や民主化についてのカノンのような理論を与えてくれていたのです。そして事実、皆、小林や丸山を読んでいました。そのような中から、後に紹介されるようになるポストモダン理論も出てきたのです。しかし、今や、若い世代はスタート地点を忘れてしまったように見えます。彼らは小林も丸山も読みません。従って、私たちはある種の二重の戦略を必要としているのです。私たちはある種のモダニストの伝統たる批評を続けなくてはなりません。そしてポストモダンの思想家との対話も続けなくてはいけません。一時的に、空間的に、こういた議論の場を切り開かねばならないのです。これが私たちが『批評空間』をはじめた理由です。

KW: 『インター・コミュニケーション』誌についてはどうでしょう? それはまだ発想段階の出版企画かもしれませんが、費用や戦略を考えてはおられると思いますし、それはある種の他に類を見ない、パイオニア的なプロジェクトのようですが。

AA: それについては約7年間取り組んできました。これは技術と文化の対話についての雑誌です。

KW: 実際、この雑誌の(そしてまたICCプロジェクト全体の)金銭的基盤は、日本の最大の電話会社NTTが提供しますが、編集方針に影響は?

AA: そうですね、確かにNTTの人を説得するのはとても骨が折れます。ICCを作る時もそうでしたし、研究活動のリソースや出版活動を始めようとする時もそうです。今までに、ある程度成功した部分もあります。しかし、私はあまりそのあたりははっきりしたことは言えません。とりあえず、今、彼らはセンターを持っていますが……それが形になったら、簡単に制度化され、官僚化されてしまうでしょう。従って、私はこれまで私たちがやってきたことがこれからも続けられるかどうか、よくわからないのです。しかし、少なくとも今までのところ、会社からはほとんど影響や圧力を受けていません。

KW: 私は、これからのマルチメディアやインターネットというもののなかで、通常これからどうしていこうという計画を持っているであろう電話会社と、一緒になって研究をしていこう、ということがどういう意味をもつのかなぁと思っているんですが。

AA: 実際、NTTは巨大な官僚組織であり、そして統一的なアジェンダを持っていません。そこには大量の人が、統一性も統一的戦略もなくいるだけなのです。彼らは共同体としての日本、そしてその神話について話しているだけなのです。まさに巨大な官僚制の無益の最たるところです。皆、何か喋りたいだけで、誰も責任をとる用意はない。それと同じことがNTTでは起きています。彼らはたくさんの研究所をもています。例えばヒューマンインターフェース研究所、基礎研究所などなど。しかし、統一的な計画はありません。私たちは基本的にこのような組織を利用しているのです。
80年代後期、いわゆるメセナと呼ばれる活動が経済界の人々の間で流行しました。ある意味ではICCプロジェクトはメセナ活動と関連するも、すなわちNTTのビジネスからは独立しており、彼らの手から離れた活動なのです。そういうためにも、私たちはどうにかこうにか独立してきました。少なくとも、私の個人的な視点からすれば『批評空間』と『インター・コミュニケーション』は戦略の両面を担うものなのです。『批評空間』においては、私たちはわざと保守的な批評の伝統を続けてきました。それはとても時代遅れのように見えるほどです。しかし、わざとそうしていたのです。なぜなら私たちは、クレイジーな情報社会のなかで、この種の良質な、古き良き批評の基準(笑)を失ってきたからです。その一方で『インター・コミュニケーション』では、新しい地平を切り開き、文化や技術科学と呼ばれてきたものの議論を刺激したいと思っています。差し当たり、もし文化と技術が互いに相補的でないならば、この統一的なプロジェクトの曖昧な側面になると思っています。

KW: 『インター・コミュニケーション』プロジェクトは、連動する展覧会プロジェクトやワークショップの試みなどによって、広く様々な領域の知見を取り扱っていますがますね。そこでは領域という考え方自体がもっと広く捉えられている。ICCプロジェクトでは、どのようにしてこのような様々な領域を対話のなかに持ち込む試みがなされているのですか?

AA: あなたが普段、インターネットについて話すとき、そして電気的なネットワークについて話すとき、あなたはアーティスティックなコミュニケーションを手にする可能性があるのですが、しかし、同時にあなたは電子マネーや電子暗号といった問題も抱え込むことになりますね。つまり、そこには広範な問題があるので、それらを理解するには、私たちは同時に様々な領域の人々の話を聞かなくてはならないのです。もちろん、中心的な事柄は、テクノ芸術と呼ばれてきたようなもののことです。しかし、私たちはテクノ美学者など必要ではないのだ、と言っておきましょう。そこには社会問題、政治問題、経済問題、そして軍事問題が新しい電子技術に関わるものとしてあるのです。私たちは、あえて社会的、経済的、政治的、軍事的といった全ての側面を議論し、同時に芸術的問題について議論するのです。

KW: まだ説得的な方法論が見つかっていないのに、メディア/文化研究はアメリカでは非常に流行しています。日本ではどうですか?

AA: アメリカの状況とは、やはり少し違うでしょうね。なぜなら、アメリカでの中心的な問題はマルチ・カルチュラリズムと呼ばれるものだからです。この接合部に切れ目を入れてみるとしましょう。アメリカでは60年代、70年代にインターディシプリナリーな研究の流行がありました。それが、今日、とりわけアメリカではマルチカルチュラリズムの流行があります。文系の研究領域では、シンプルに西欧的なカノンに絞って取り組むというようなことは、不可能でしょう。アフリカ文学、アジア文学などを読まないといけないのです。また男性作家、ヘテロセクシャルだけというわけにもいかないでしょうね。ゲイの作家や、レズビアンの物書きの著作もよまないといけない、ということです。そういったことの弊害は、作品の本来的な部分、内在的な部分よりも、政治的な側面ばかりが重視されてしまうということです。もちろんマイノリティや周縁的な人々が作り出したものを再発見すること、それ自体は素晴らしいことです。しかし、私が思うに、うーん、まぁそういうことが仮に政治的な問題として扱っているのでないといったとしても、少なくとも倫理的な問題として扱っているということにはなるでしょうね。そしてそこにはまた別の問題があります。
そういった傾向が、それに続く、ポスト・コロニアル研究とか、ジェンダー、クィア研究にもたらされたなら、私はそれらの領域は自律的な領域ではなくなると思います。自律した研究領域は、私が思うに、それ自体がほとんど主張すべきものがないのです。例えば日本文学研究において、日本における在日韓国人作家の存在を無視することはできないでしょう。在日韓国人作家をすべて排除して、日本の戦後文学を語るならば、何も言うことがないというと言い過ぎかもしれませんが、少なくともつまらない貧素なものになりますね。また女性作家の存在もそうでしょう。日本文学には非常に長い長い女性作家の歴史があります。つまり、私は補助的なマイノリティというような発想では考えない、ということです。そうではなく、マイノリティのようなものは既にここにあり、重要なことはそれをその中においてきちんと捉えるということなのです。新しい研究領域を作れば良いということではありません。私は決して反動的な話をしたいということはお分かりでしょう? 概ね、私はこういった類のマイノリティ運動を支持したいと思っているのです。しかし、私としてはこういう事柄を、何か新しい孤立した文学や哲学の研究領域を作ってその中でやる、というのではなくて伝統的な研究領域そのものの中にこういう傾向を位置付けて取り組むほうが良いだろうと考えているのです。

KW: 最近では批評家/編集者/仲介者というようなあなたのお仕事のほうが、京都大学の経済学者/助教授としてのお仕事よりも重要性を増しているということなのでしょうか?

AA: そうです、そういった仕事のほうが教育者としての仕事よりも重要だと思っています。実際、私たちは若い世代に論文を投稿するように強く求めようとしています。私たちは二〜三人、20代の非常に面白い研究者を見つけることができました。また私にとっては若い芸術家を支援することも、同様に重要なことだと考えています。

KW: あなたが、例えば新しい本を上梓するのを控えておられるのは(あなたの13年間、新しい著作を出していないわけですが)、あなた自身が日本の社会で作り上げてしまった自分の役回りに対する、戦略的なリアクションなのかどうか、そのあたりがどうなのかなと思っているのですが?

AA: そうではありませんよ。第一、私はとても怠け者なんです。働きたくない。そういうことですよ。でももちろん、わたし自身が消費社会やマス・メディアといったものから距離をとろうとしてきたということはあります。テレビに出演することも滅多にありませんし、主要な新聞に寄稿することもほとんどありません。実際のところ、これは決して十分に計算した戦略というよりも、むしろ自然発生的なリアクションという感じですね。まぁ何れにせよ、それがうまくいったというところでしょうか。


このインタビューは今冬はじめに出るSpex Magazineに掲載予定である。

コメントを残す